溝口梓里の日々精進

他者のプライバシー保護を重視するので、激動の日記にはなりません。個人的信念の吐露と、公開型の書籍・講演・試験への感想とが、主な内容。

名古屋でもジュンク堂とそのコラボカフェに入り浸り。

 池袋生活でもジュンク堂とその店内カフェを楽しみまくっていましたが*1、名古屋でもジュンク堂とそのコラボカフェを楽しんでおります。

 夕方にジュンク堂名古屋店で本を買い、その足で地下に行ってカンノンコーヒー名駅前店に籠り、さっそくその本の学習を開始。

 「21で閉店」というタイムリミットがあるからこそ、集中して効率よく学習できます。

FP検定3級の合格点を取得してきました。正式合格は来月。

 このたびFP検定3級を受験し、無事に合格点を勝ち取りました。

 FP検定3級の取得には実利もあります。それはFP検定2級の受験資格です(コブラ論法)。

 ただし正式な合格発表は来月なので、明日にでも2級を受けられるというわけではありません。

 そういうわけで、しばらくは足踏み状態です。

愛知県弁護士会に入会を申請してきました。

 愛知県弁護士会に入会を申請してきました。

 認められるのは早くても9月中旬になるので、もうしばらくは一弁所属の弁護士として活動します。

名古屋市民になりました。まずはIMAGAWAさんにご挨拶。

 名古屋市に住み始めました。

 こちらは昨夜に到着直後に立ち食いしたきしめんです。

 こちらは、行政法判例で有名な世界デザイン博覧会の遺物です。

 名古屋市民になったことで愛知県弁護士会所属のIMAGAWAさんと会いやすくなったので、早速お会いしました。

 あー、幸せ。

 これからも頻繁にお会いしたいものです。

『NU7』のNo.60の35ページに、私の文が載りました。

 『學士會会報』と並ぶもうひとつの学士会の会報誌『NU7』*1は、国立七大学の総合情報誌です。

 今回で『NU7』は60号*2です。その35ページには私の「生で聞いてよかった! 3月のミニプレゼン会の感想」という文章が載りました。

 興味のある方は、是非読んで下さい。

ブログ版「中国哲学史の泰斗、宇野哲人の、研究手法の源流を探る 「法学」の発想を導入することで見えてきた、語られざる中国哲学史研究史」 スライド19~23相当部分

スライド19相当部分

 スライド11発言の続き。​

 「(前略)それがもとで、大体大学院で宋学を主としてやるつもりだったもんだから、ちょうどヴィンデルバンド(ママ)式にやるといい、というんでそれでやり出したんですが、やっているうちに宋学をやるなら、やっぱり易からやらなくちゃいかん、古典をやって、そしていかなくちゃだめだというんで、またもとに、高いところにいって順々に、ずっとやっていきました。先秦の書をひと通り読み、漢代を読み、だんだん読んでいく。それで私の何はもう、ヴィンデルバンド(ママ)が、私の手本です」

スライド20相当部分

 体系を立てるまでの経緯の質問であるから、これは概ね『支那哲学史講話』執筆までの経緯を語っていると考えるのが普通の解釈だと思う。

 すなわち卒業論文のとりわけ「序」で第二期ヴィンデルバントの影響されたのを機に、大学院でも宋学を研究する前提として通史もやるようになり、やがてその試みが『支那哲学史講話』として結実した。そしてそれは全部、第二期ヴィンデルバントの影響だった、と考えるべきである。

スライド21相当部分

 第二期ヴィンデルバントからの影響は、以上のように確実に証明できる。

 一方で、その後の宇野哲人の研究者人生に対する、他の時期のヴィンデルバントからの影響については、可能性としてならばありうるという程度である。

 以下は、これまで語ってきた話とは違って、「両者はこう似ている」しか証拠がない話である。あくまで余談と考えてほしい。

スライド22相当部分

 第二期で歴史的傾向に目覚めて『近世哲学史』を書いたヴィンデルバントは、第三期では歴史を越えて議論されてきた哲学上の問題とそれへの自分の立場を書いた『プレルーディエン』を著した。​

 その『近世哲学史』の影響を受けて、同じく通史の大切さを大学卒業間際に再認識した宇野哲人であったが、『支那哲学史講話』だけでは不十分と考え、姉妹書として話題や概念を中心にした『支那哲学概論』(後の『中国哲学』)も書いた。これは第三期ヴィンデルバントに似ている。​

 しかもその『支那哲学史概論』冒頭には、歴史的な話も最低限だけ語られている。よって歴史と体系の統合を目指した第四期ヴィンデルバントの影響もまとめて受けた可能性もある。

スライド23相当部分

 また戦後の宇野哲人は、軍国主義と利害対立をした話ばかりをするようになるが、戦時中は軍部や軍国主義者との連携を深め、中国支配の道具として自分の知見を提供していた。そしてこの試みは勿論ながら頓挫に終わっている。

 そういう意味では宇野哲人の生涯は、絶頂期であった第四期の後に、さらにもっと大きな学の統合をしようとして頓挫したヴィンデルバントの生涯と似ていなくもない。

 一番好きな大学に31年間奉職したという偶然の一致もある。

 その上で前掲「それで私の何はもう、ヴィンデルバンド(ママ)が、私の手本です」を拡大解釈すると、「宇野哲人ヴィンデルバントを手本にした」という漠然とした紹介文も一周回って実は意外と正鵠をついていたのかもしれない。

 とはいえ繰り返しになるが、これはあくまで「似ている」ぐらいしか根拠の無い話である。

 逆に「『支那哲学史講話』発表後の研究者人生までヴィンデルバントに似てしまったのは、まったくの偶然である。別の影響を受けてこういう研究者人生になった」という仮説にも、それなりにしっかりと根拠がある。以下にその話を書く。

 「やっぱり易からやらなくちゃいかん」と思った後に書いた『支那哲学史講話』の「易」に関する話では、「三易」という概念が語られている。

 「変易」、千変万化する現象を描写したのが易である。「不易」、その変化には整然たる理法がある。「簡易」、その理法は単純なものである。

 「やっぱり易からやらなくちゃいかん」によりこういう「三易」の考え方を体得したならば、第三期以降のヴィンデルバントの影響が無かったとしても、「「変易」で書いた歴史本の次の姉妹書は、「不易」で書く体系本だ!」と考えることは十分に有り得ることである。