溝口梓里の日々精進

他者のプライバシー保護を重視する予定なので、激動の日記にはなりません。個人的信念の吐露と、公開型の書籍・講演・試験への感想とが、主な内容になる予定。

陳天璽氏の著作を読み、「無国籍」の多様性を学んだ。

第1 話の枕

 年末年始に旧Twitterの「法クラ」界隈で、概ね「デートで食事を一緒にしたら、その後の濃密な関係についても黙示の同意をしたことになるか?」と要約できるような話題が盛り上がった。

 私は、法律家としては駆け出しなので、深い法理論を積み重ねる形での貢献はできそうになかった。しかし文学部出身だからこそ言えることもあると考え、「「よもつへぐい」や「一宿一飯」や「同じ釜の飯」等と比較することで背景の文化の考察がより実り豊かになるかもしれません」と書いた*1

 そこには書かなかったが、殷(商)から周への革命を承認せず、周の粟を食べないのが正義だと考えて首陽山の山菜だけを食べて餓死したと伝えられる、伯夷と叔斉の兄弟の故事もある。現代の領域国家を前提とすると、周が天下を統一したなら首陽山も周の一部となるわけだが、当時の感覚では考えようによっては周の外部でもあったのだろう。これも「誰かと同じような食べ物を食べると共同体の一員になってしまうという意識」の一例かもしれない。

 二人の餓死について、孔子は「本人たちは怨まなかっただろう」と評しているが、司馬遷はこの見解を疑問視している。

 そして現代版の伯夷と叔斉ともいうべき人々が日本にいる。法律家の間では「光華寮訴訟の発端」という形で有名であるが、西暦1972年に日本国は、「中国」の正統として認める政権を中華民国から中華人民共和国へと変更した。このときに中華人民共和国への違和感や反発等から、あえて無国籍を選んだ一部の華僑の方々が大勢いたらしい。

 本日紹介する書籍の著者である陳天璽氏は、そんな無国籍の夫婦から無国籍者として生まれ、多くの苦労をされた方である。

第2 陳天璽氏の著作の感想

 最近私は陳天璽氏の著作のうち、『無国籍』(2005 新潮社)と『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』(2022 光文社)を読んだ。

 最大の収穫は、制度的には「無国籍」とまとめられがちな方々の置かれた状況が、非常に多種多様であることを再認識できたことである。

 まず当然ながら、「強いて挙げる一番縁のある国」の時点で、単一国籍者同様に約200種類に分けられる。

 そして当人が無国籍になった状況も多種多様であり、自己の国籍に関する現状への感想も今後の目標も十人十色であり、そもそも国籍という概念についても各人各様であるということである。

 こういう多様性を知らずにいると、自分がたまたま最初に知った無国籍者を無国籍者の典型例であると誤解しやすい。その場合、ある人は自分では悪と戦うつもりで無国籍者全員を迫害しようと決意してしまうであろうし、また別のある人は自分では親切のつもりで大半の無国籍者には迷惑となる活動をしてしまうであろう。

 無国籍者に対してすべきことは、行動するより先にまずはこうした本を読んで多様性を知り、次にホームラン的解決を最初から諦めてケースバイケースで地道に対応することであろう。「全員を排除する」だの「全員によもつへぐいをさせ同胞になってもらう」だのといった大雑把な対応は、もってのほかである。

 そうあってこそ、後世の史家の過半数から「この時代の日本の無国籍者たちは、孔子の想定した伯夷と叔斉同様に、特段の怨みを持たなかったであろう」と評価されると思われる。