溝口梓里の日々精進

他者のプライバシー保護を重視する予定なので、激動の日記にはなりません。個人的信念の吐露と、公開型の書籍・講演・試験への感想とが、主な内容になる予定。

大著『裁かれた命』紹介。読後に突きつけられた、怠慢。

 本稿は、堀川恵子著『裁かれた命』(講談社 2011)を貸してくれた某先生(プライバシー保護のため本名は秘密)宛てに書いた感想文を、大幅に加筆修正したものである。

第1.内容の紹介と感想

 1966年に強盗殺人を犯して1971年に死刑を執行された長谷川武氏についての書である。

 読み始める前に著者の生年を見ると1969年とあり、この時点で「1966年の事件を調査するのは大変だろう」と思った。

 本文に入ると、思った通り情報提供者は少ない。たまに運良く会えても当然ながら相手は高齢者であり、記憶も曖昧だったりする。

 普段の私は、ドキュメンタリー内の楽屋ネタともいうべき取材の苦労話に冷淡である。そういうものの大概は字数や尺稼ぎであるからだ。

 しかし本書においては「今や情報が少ない」という苦労話まで含めて、「忘れられた死刑囚」ともいうべき長谷川氏の伝記の一部に思えた。

 著者の調査には鬼気迫るものがあり、第八章では1917年生まれの母親の生い立ちを調べ、第十章では1915年生まれの父親の生い立ちを調べ、長谷川氏の犯罪の真の動機を考えている。約100年前に生まれた一般人の人生の調査は並大抵の苦労ではなかったであろうし、また現代においては「時の流れ」だけでなく「プライバシー」という壁もある。「売文」という商売の観点からは完全にただの赤字であったろう。ここに著者の真のジャーナリズム魂を感じたものである。

 この情報の少なさの理由については、「古い事件だから」と「当時からずっと、マスコミ等が騒がなかったから」の他にも、「検察が過去の刑事裁判情報を悪い意味で独占しているから」ということもあったようだ。この側面への批判としては、第三章が理論まで含めて非常に充実している。

 第四章では、長谷川氏の二審の国選弁護人であった小林健治氏の生い立ちが延々と語られる。判事時代に東条英機に逆らって中野正剛の勾留請求を却下した等、中々壮絶である。この章だけを独立させても、同じく東条英機に逆らった吉田久判事の伝記である清水聡著『気骨の判決』(新潮社 2008)のような一冊の本になりそうな勢いである。こういう良い意味での「奇人」以外の弁護士には見捨てられた長谷川氏の立場が、ますます浮き彫りになっていた。

 以上の著者の商売を度外視した努力によって、読者が事件前後の長谷川氏について相当の知識を蓄えたあたりで、ついにこの大著も簡潔な終章に突入する。ここでは、事件から40年以上経過しても調べようと思えば調べられた背景情報を知ろうともせず、長谷川氏を殺したり見殺しにしたりした当時の関係者が上手に糾弾される仕組みになっている。

 まことに見事な構成である。

第2.読後に突きつけられた、怠慢

 本書で著者が批判をしている直接の対象は、当時の司法の関係者である。あとはせいぜい、他のセンセーショナルな死刑囚の情報ばかり追っていたマスコミである。

 しかしこの質・量ともに「大著」である本書を、読後に物理的に眺めると、また違ったものを突きつけられる。

 著者と同等どころか多少能力が劣るジャーナリストであっても、もう少し早く誰かが同じような本を書こうとしていたならば、本書は一層優れた大著として誕生していたであろう。そうすればより死刑についての議論が深まったはずだ。

 さらに遡って長谷川氏の生前に書かれていたならば、死刑判決には至らなかったかもしれない。至ったとしても、量刑についての国民的議論はより深まっていたであろう。

 「この40年間以上、何をしていたのだ?」というメッセージを、本書が言外に発しているように思えてならない。

 そして現代でも、「自分は死刑制度に関心があるので、死刑囚にも着目している」と自認している人たちにも、実はマスコミが激しく報道した死刑囚にばかり注目している人は、多々いることだろう。この種の欺瞞まで告発されているような気がした。